ヨブ記

クリスチャンを自称する人なら知らない人はいないと思う、ヨブ。

旧約聖書の《ヨブ記》の主人公。過酷な試練に耐え,信仰を堅持した人物として知られる。同じく旧約聖書の《エゼキエル書》の14章14節,20節にはノア,ダニエルとともに,古来有名な義(ただ)しい人の典型として出てくる。
株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」より

『旧約聖書』の「ヨブ記」の主人公。旧約の「エゼキエル書」によれば、彼はノアおよびダニエルと並ぶ3人の義人の代表者に数えられる(14章14、20節)。
小学館「日本大百科全書(ニッポニカ)」より

このように、非の打ちどころのない「義人(正しい人)」とされ、信仰の篤い人の見本のように語られることが多い。

だからクリスチャンは彼を手本にしようとしてしまう。ヨブのような信仰を持たねば!と。少なくとも私はそう思ってしまっていた。

そして思う。
ヨブのように信仰の篤い人に、これほど大きな困難が降りかかるのか。信仰が篤ければ篤いほど試練は大きくなるの?そういえば私が動画を視聴しているある牧師は息子を若くして亡くしている…。私から見たら本当に「お手本」、「真の」クリスチャンの方が大きな試練に遭っている…。やっぱり信仰が大きいほど大きな試練が与えられるのか…。私はこんな大きな試練には耐えられない。試練に遭いたくない。そしたらあんまり信仰しない方がいいんじゃないの?え?でもそんな信仰で天国行けるの?あー、もうわからん!

そんな時期が私にはありました。
牧師や牧師の家族、先輩兄弟姉妹をそれはそれは尊敬していましたので。

でもね、通っていた牧師や教会に疑問を抱くようになって、考えが変わりました。

牧師とか、自称「信心深いクリスチャン」は、けっこう自分の信仰を奢っています。私はあなたより聖書をよく知っている!という自負がすごくある。で、私のような新米クリスチャンの言うことなんて聞かない。聞いても「この人の言うことなんてどうせ間違っている」という先入観込み、そしてすぐに否定。とにかく「聖書に関しては私の方が理解しているんだから、お前は黙っとけ!」という感じで、牧師と意見が合わない人は教会に居づらい。

って、皆様の教会はそんなことありませんか?

私は、この奢りが、あんまり良くないんじゃないかな?と思います。

ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。 七人の息子と三人の娘を持ち、 羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった。
息子たちはそれぞれ順番に、自分の家で宴会の用意をし、三人の姉妹も招いて食事をすることにしていた。 この宴会が一巡りするごとに、ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげた。「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにした。
(ヨブ記1:1−5)

これって、「自分(ヨブ)は正しくて罪は犯さないけれど、子供達は罪を犯す可能性があって、救われない可能性がある、だから子供たちの分の生贄を念のため捧げておこう」っていう考えですよね?
それって、神様に全幅の信頼を寄せてなくないですか?
「自分は大丈夫だけど、息子たちはダメだ、罪を犯してるかもしれない」っていう考えもどうなんでしょう?自分は大丈夫っていう奢り?

ヨブをお手本にすると、信仰が怖くなる。
だからそれはやめた方がいいと思う。

私は今こう考える。
「神は善い」のだから、私にとって悪いことは絶対にしない。安心しよう。神様が私の最善を考えてくれているので、それに委ねよう。そして毎日生かされていることに感謝しよう。
私は神様を信頼しているので、神様は私の大切な人たちも絶対に救ってくれると信じている。大丈夫。安心して生きよう。

神様は私よりずっとずっと優しくて正しくて人を愛しているのだから、私が子供たちにしてあげたいと思うことは、神様は私以上に子供に対しても、私に対しても思ってくれているはずだ。だから私は安心すべきなんだ。

でも人間はすぐに悪魔に騙されて、不安になったり怖がったりする。
私もしょっちゅう。
だから今日も神に祈る。
不安はいらない。恐れはいらない。取り去ってください。

ヨブ記を読んで、私のように「信仰が篤ければ篤いほど試練は大きくなるの?怖い!」って思っている人がいるかもしれないと思って、「そんなことないよ」という意味で、こんな記事を書いてみました。