洗礼について思うこと

実は私はまだ洗礼を受けていない。
神様を信じるようになって8年目だというのに…。
これはひとえに通った教会の問題だと思う。

8年前、私は神様の存在を知り、神様についていきたいと思い、洗礼を受けたくて仕方がなかった。教会に通い始めたのも、洗礼を受けたかったという理由が大きい。
しかし私の通った教会は、牧師があまりにも厳格で、牧師が「ふさわしい」と判断しない限り洗礼を授けてくれない。

牧師から「ふさわしい」と判断されるためには、A4の紙16ページにわたる教会の信仰告白を牧師とともにじっくり勉強せねばならず、また日頃の言動も牧師の目に「正しい」ものでなければならない。
さて、16ページの信仰告白であるが、私はもう何年もこの勉強をしている。しかし一向に終わらない。まず、牧師の説明が細かすぎて、一つの項目(20行程度)を終えるのに何日もかかるのだ。そして勉強会は不定期で、週1だったり月1だったり、半年休んだり、とにかく牧師の都合次第。そして教会に新しい人が来るたびに最初から始めたりして、この数年でようやく10ページ終わったかどうか。この調子では、この教会で洗礼を受けるには最低10年はかかりそうだ。
さらに、洗礼を受けられるかどうかは牧師が決めるので、牧師の気分を損ねると洗礼は受けられない。

おかしな話だ。

信仰生活8年目。私はすっかり当初の「洗礼を受けたい」という情熱を失ってしまった。というか、いろいろあって、「もうこの牧師からは洗礼を受けたくない」とまで思うようになってしまった。

洗礼は「シンボル」であって、受けていないから救われていないということは全くない。逆に、受けたからといって救われているとも言えない。なんというか、これから新しい人間に生まれ変わって、神とともに歩くぞ!というスタート地点に立つためのものだ。だから私的には、神様を信じた時、その情熱に満ちたときに洗礼を受けるのが(牧師なら洗礼を授けるのが)一番良いと思う。私のように何年も経ってしまうと、洗礼がどうでもよくなってしまうし、受けるタイミングもわからなくなってしまう。

私の夫は、神様を信じたばかりの頃、バルセロナでデンマーク人の伝道者トーベン・ソンダーガードさんから洗礼を受けた(夫はもともとカトリックなので、カトリックの幼児洗礼も受けている)。しかし牧師は、トーベンさんを知らない(&たぶん夫の信仰は本物ではないと判断した)ため、その洗礼は認めず、よって夫は聖餐式に参加できない(ちなみにカトリックの教会は、所属教会関係なく、どの教会でも聖餐を受けられる)。

時々私たちの教会に、新しい人がやってくるが、イタリアの他のプロテスタント教会ですでに洗礼を受けている人がほとんどで、その人たちはすぐに聖餐式に参加できる。

なんか理不尽。

聖餐式に参加できるか否かを牧師が判断するの?
各人の信仰を牧師が判断するの?
おかしいよね。

私的には、聖餐式も、参加したい人皆が参加すればいいと思う。洗礼とか日々の言動とか関係なく…。

さて、洗礼に対する情熱がすっかり消えてしまった私は、いつか夫から洗礼を授けてもらえたら、と思う。二人だけでひっそりと。それが私にとっては一番良い洗礼かもしれない。

そんなことを思う今日この頃。