三島由紀夫の檄(げき)

2年前、コロナワクチン未接種者に対する行動制限や差別、迫害がエスカレートしていた時、「戦後に生まれてコロナ騒動前に亡くなった人は、こんなひどい時代を知らなくて幸せだったな」とか考えた。
けれど、何も気づいていない人にとっては、いつもと変わらぬ平和な日常だったわけで…。私がどんなに苦しんでいたかなど、つゆほどにも思わない。

私も、この世の嘘に気付くまでは、ただ自分の日常をこなすだけで、世の中に何の疑問も持たずに生きてきた。ある意味幸せな人生だ。
この世の嘘に気づいてしまった人だけが、どの時代にあっても、悶々と苦しみ、どうすることもできない自分の無力さに絶望するのだろう。その絶望にあって神を見つけた人は幸いだが、見つけられなかった人は絶望の果てに自死に至るのかもしれない。

たまたま三島由紀夫の「檄(げき)」を読む機会があった。檄は1970年(昭和45年)11月25日、陸上自衛隊市ケ谷駐屯地内の東部方面総監室を占拠後(三島事件)、バルコニーから演説する際に撒布されたものだ。私は子供の頃、三島由紀夫はクーデターを起こそうとして失敗し、割腹自殺した狂人だと思っていた。しかし今は、彼の憂いがわかる気がする。彼は狂人ではなく、ほんの一握りの「真っ当な人間」だったのだと思う。

以下、「檄」より

われわれは戰後の日本が、經濟的繁榮にうつつを拔かし、國の大本を忘れ、國民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと僞善に陷り、自ら魂の空白狀態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、權力慾、僞善にのみ捧げられ、國家百年の大計は外國に委ね、敗戰の汚辱は拂拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と傳統を瀆してゆくのを、齒嚙みをしながら見てゐなければならなかつた。

日本を愛するがゆえの憂い。三島が今の岸田政権下の日本を見たらどうなるだろうか。それこそ発狂するかもしれない。

われわれは戰後のあまりに永い日本の眠りに憤つた。

今も日本は眠ったまま。

日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・傳統を守る」ことにしか存在しないのである。

三島が日本を愛していたことがよくわかる。

そこでふたたび、前にもまさる僞善と隱蔽、うれしがらせとごまかしがはじまつた。

自衛隊に限らず、権力のない普通の人間は皆、この手法で騙されている。

もし自衞隊に武士の魂が殘つてゐるならば、どうしてこの事態を默視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であらう。男であれば、男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衞隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な命令に對する、男子の聲はきこえては來なかつた。

世界が羨む日本の武士道はもはやない。皆、去勢されてしまった。

しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に關する財政上のコントロールである。日本のやうに人事權まで奪はれて去勢され、變節常なき政治家に操られ、黨利黨略に利用されることではない。

自衛隊は政治家のいいように使われる道具。

この上、政治家のうれしがらせに乘り、より深い自己欺瞞と自己冒瀆の道を歩まうとする自衞隊は魂が腐つたのか。武士の魂はどこへ行つたのだ。

「政治家のうれしがらせに乗り」という言葉は的を射ている。私たちはこの「うれしがらせ」に散々騙されて、日本を破壊する政策を受け容れさせられてきている。消費税然り。LGBT法しかり。

沖繩返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは眞の日本の自主的軍隊が日本の國土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を囘復せねば、左派のいふ如く、自衞隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。

予言的中。悲しいが、日本はアメリカの傭兵。しかも足軽だ。

共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の眞姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の價値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の價値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主々義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と傳統の國、日本だ。

泣ける。

三島は救われただろうか?今際の際でも、彼の魂が救われていたことを願う。

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