宗教から抜け出す

一般には、キリスト教っていうのは一つの宗教で、日本は仏教(プラス神道)、中東はイスラム教、欧米はキリスト教、という文化の違いのような扱いだ。

というのも、私が「仏教徒」だったとき、それはただ単に、家の宗教(お墓とか仏壇とか世話になっている寺)が仏教だというだけで、仏教の教えを知っているわけでも信じているわけでもなかった。つまり私にとって仏教は、お葬式や法事でお世話になるだけの単なる文化様式だった。

イタリアはほとんどがカトリック(キリスト教)だが、日本の仏教徒と同じで、人々は聖書の神を本当に信じているわけではない。洗礼も日本の七五三のような単なるお祝い事に過ぎない。

本当に神を信じると、それは宗教ではなく「真実」になる。ひょっとしたら仏教でもイスラム教でも、心の底からそれを信じている人にとっては、その教えは「真実」なのかも知れない。けれど一つ見分け方を…。宗教は人間が作り出したものであり、真実は神だけが持っているものだ。だからまず、「あれをしなければいけない、これをしなければいけない」という規則や義務があるものは、真実ではなく宗教(人工物)だ。「真理はあなたを自由にする(ヨハネ8:32)」はずだから。

聖書以外の全ての教えは、人間の行いによって天国(極楽浄土)に行けると説く。聖書だけが、人間の行いによっては誰も救われず、神がすでに救ってくれたと信じることで、天国へ行く(肉体は死んでも魂と霊は死なず、つまり私たちの意識は残り、永遠の命を得る)ことができると説く。

そういうわけで、聖書の神を信じた人は、自分だけが救われた、哀れな他の宗教の人々は救われない、と思う。

しかし、キリストを信じていると自負する人も、知らず知らず真理から遠ざかり、宗教をやっている人が誠に多い。牧師を始め。

キリスト教会には様々な規則がある。
私の通っていた教会は月初めに献金を集めていた。額は自由だが、「少ない」と牧師に嫌味を言われていた人もいた。
定期的に教会のお掃除など「ご奉仕」をしないといけない。参加は自由だが、行かなければ牧師らにどう思われるか…云々。
兄弟姉妹を愛し合おう、励ましあおう、とか言って、定期的に電話のやりとりをしたり、誰かが病気になったら、毎日お見舞いの電話をかけないといけないとか。拒否ると「愛がない」と言われるとか。
で、皆さん、「良いクリスチャン」でいるために、一生懸命頑張るわけですよ。そこで私は思うわけ。あれ?何を一生懸命、無理して頑張っているのかな?って。何事も、それが本心から出るものでないならば意味がないし、無理して頑張って、苦しくなるだけでは?
って現に私は苦しかった。私は電話が好きじゃない。そして教会の人もいつも「神様のおかげでいつも幸せです」みたいなことを言う人ばかりで、本心がわからないから、話すこともないし、打ち解けることもない。だから電話で話すこともないし、うわべの会話で終わるだけ。そんなのになんの意味があるの?(偽善はいやだ12もご参照ください)

というわけで、教会に行くのをやめた。自由になって幸せだ。偽善者ぶる必要もない。

教会という宗教から抜け出そう。

(教会って、イエスを信じる人のことであるから、建物を指すのでもなければ、牧師をトップとした組織を指すものでもない。牧師を「職業」とする人がいて、その人が「先生」のように説教をする、という今のキリスト教のスタイルはおかしいと思う。そうでない教会(イエスを信じる人がワイワイ集まって、神様の話をして楽しい時間を過ごす)があれば、行ってみてもいいかな。あんまりないけどね。)