最近、教会の居心地が悪い。
ウクライナ紛争が始まってから、うちの牧師が妙にウクライナ支援に熱を上げ、ウクライナ在住の牧師やウクライナからの避難牧師を見つけては連絡を取って、毎週ZOOMで彼らの講演会を開き、彼らへの援助を申し出ている。
私はこれには反対だ。
もちろんウクライナの平和を祈るが、私はウクライナの政治も歴史も何も知らない。ロシアのことも何も知らない。戦争というのは、今までの歴史を見ても、どちらか一方が完全な悪で、どちらか一方が完全な善ということは絶対にないはずだ。だから、一方的にロシアを悪とする欧米諸国と日本の報道には非常に違和感を感じる。
そして今、牧師はロシアを完全な悪としている。
「あなたはいつから善悪を決められるようになったのですか?」と私は問いたい。
「それはあなたの驕(おご)りじゃないですか?」と。
教会員もイエスマンばかりで、牧師に反対意見をする者は誰もおらず。
これはやはり、私が心の汚い悪いクリスチャンだからかもしれないけれど、もうすっごい偽善者集団に見える!
だってさ、生きてく上で、綺麗事ばっかり言ってられないでしょ?苦しい時は「もうダメ」って音を上げたくもなるし、政治があまりにも酷くて社会が理不尽極まりない時は「やってらんねぇ!」ってちゃぶ台ひっくり返したくもなるし、コロナでもウクライナでも、「ええ加減にせえよ!」って言いたくもなるでしょ?人間なら。
それで、そんな暗闇にあっても、神様を信じているから希望があり、希望があるから生きていけるわけで、それを神様に感謝しているわけで…。
「神様ありがとう、神様のおかげで苦難があっても心穏やかで、全く何も問題ありません!」というわけではないでしょう??
私は、本当に神の家族になるためには、自分の罪深い部分、自分の過去の罪とか、汚い自分をさらけ出して、それを共有して、一緒に成長して行くべきだと思う。
でも教会の皆様は、汚い部分を絶対に見せない。
かつて牧師の娘婿からポルノ依存症の話を聞いたが、彼はそのことを絶対に人に言わないで、と口止めして、教会では完璧な好青年を演じている。
それとも、私だけが罪深くて、心が汚れまくっていて、俗世間のことに心を囚われているのだろうか?他の人は心が澄み切っていて、私のような感情は微塵も起こらないのだろうか?
さて、私は牧師に、ウクライナ寄りとか、一方に肩入れするのはしたくないと告げ、毎週のオンライン講演は聞いていない。
戦争が始まってすぐ、牧師は「クリスチャンなら、愛を行動で示さなければいけない」と言って、ウクライナに義援金を送るために集金をした。
その時私は「私は(ウクライナじゃなくて)教会に献金をします。あなたが正しいと思うことに使ってください」と言ってお金を渡した。そして「牧師さんよ、もしあなたがウクライナの人々を助けたいのなら、この町にもウクライナから避難してきた子供たちがいて、滞在先を探していますよ。受け入れてはどうですか?もし受け入れるなら、私は食べ物などの物資を毎日届けますよ」と言った(だって、その頃、子供の学校のグループチャット等には、避難児童のホームスティ先を探すメッセージがいっぱい届いていたから。そして牧師の子供達はもう独立していて、部屋は余っているだろうから)。
受け入れんかったけど。
日本は本音と建て前の国。ある意味、偽善大国だと思う。
イタリアのクリスチャンは、善い人間になろうとして、一般的な日本人たる「建て前」人間になってしまっている気がする。
何でも腹を割って、率直に意見を言えるイタリア人気質って、日本人の私から見ると善いことだと思うし、羨ましい。でも教会の人々は、善い人間であろうとするあまり、そのイタリア人の善い部分をなくしてしまっている気がする…。
偽善はいやだ。
正直でありたい。
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